メール受信:食事にしますか?おつまみにしますか?
メール返信:どちらもお願いします。でも、ダイエットをしているのでお米はいりません。
今年の夏に管外転勤というドラマがあり、「平日は東京、休みは仙台」という生活を送っている私は、11月初旬の飛び石連休の過ごし方を迷っていた。そんな時ふと「実家は埼玉」ということに思い当り、さらに迷いながらも、「2日の晩、ちょっと泊まらせてもらうよ。」と、勇気を出して実家の老母に電話をしたところ、今度は老父との間で冒頭のメールのやりとりが行われた。
当日は17時半のチャイムとともに退社。14年間のみちのく生活で、すっかり東北人になっていた私は、迷える大人の道先案内人、Yahoo路線情報の指示に従い、虎ノ門17時43分発の銀座線で上野まで行き、上野18時03分発の東北本線に乗り込んだ。実家の最寄り駅までの運賃640円。これに駅から自宅までのバス代をたすと昼飯代2食分いけるなぁなどと、ふつつかなことを考えながら、最近の両親との付き合い方について漠然と思ったことがある。
私自身、夏や正月に実家へ帰らないわけではないし、両親には、宮城県民最大の娯楽、と私が勝手に思っている楽天イーグルス観戦に、毎年の恒例として欠かさず足を運んでもらっている。ただ8年前に私に家族が出来てからというもの、父母と面と向かって話をするのが、私の方だけかもしれないのだが、何だか照れくさくなってしまった。そんなこともあり、いつの頃からか、じじ・ばばの対応は妻や二人の子供になっていたし、また、それを両親も嬉しく思っているようであった。
あれやこれや、思いにふけっている内に実家に到着。出迎えたのは老母のみで、老父はアルバイトに出ており3時間ぐらいで戻るとのことだった。
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ちゃんと連絡したのになあ、まったく…と思いつつも、空腹とビールの魅力には勝てず、まずは老母と二人で乾杯。三人でも照れくさいのに、二人っきりとは照れくささの極限、私はアルコールの力を借りながら、老母が話す、家族や親戚の健康や将来についての心配ごとを聞いていた。実家に住んでいた15年前と変わらず、老母は常に心配ばかりしている。世間の母親はみなそうなのであろうか。私はそんな老母の心配話に、根拠のない「大丈夫だって。」という相槌を繰り返していた。
焼酎お湯割りが3杯目を迎える頃、庭先の飼い犬がガサゴソガサゴソ、ワンワンワン。ついに老父が帰ってきたようだ。
「おれも一杯だけ飲むかな。」老父も席に着く。最初は無理に話をすることもなく、囲碁の番組を録画したビデオを見始める。しばらく私は、老父が対局に対して感想を述べているのを聞いていた。老父が一杯目を飲み終える頃には囲碁のビデオが終わり、テレビの画面はニュースへと替わった。老父も酔いがまわってきたようだ。いつの間にか老母は席を離れている。老父と私は、テレビから映し出される、政治、事件、スポーツなどのニュースに対し、政治なら総理大臣、事件であれば警察庁長官、プロ野球だったら名監督になったつもりで、お互いの無責任な持論を思う存分吐き出していた。すっかり日本の舵取りを終えた頃には二人のアルコール摂取量も限界に達し、ほどなく眠りに就いた。
翌朝、散歩がてら実家から10分ほど離れた市営霊園に一人で出かける。ここには祖父の墓がある。無数にある墓石の中から、お盆の記憶を頼りに何とか祖父の墓石を探し出す。供花も何も持参していない。墓石を前にしゃがみこみ軽く祈りを捧げるだけである。祖父の思い出はここ数年でかなり薄らいでいる。この祖父とのつきあいも墓場の方が長くなった。
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駅までは老父が送ってくれることになった。車の中で老父が「今晩も泊まって明日の朝、直接会社に行けばよかったじゃないか。」と言った。「ほら、寮で洗濯とかもあるし。」私はそう言いながらも、有り難い気持ちでいっぱいだった。
私の両親は健在である。これはとても幸運なことだ。心からそう思う。実家に帰ったからといって何があるわけでもない。しかし、一緒にいる時間さえ過ごせれば何もしなくていいのかもしれない。自分が「子供」でいる間は用が無くても実家に足を向けよう。埼京線の地下ホームへ向かう下りのエスカレーターに乗りながら、そんなことを思っていた。
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